論理の感情武装

PDFに短し、画像ツイートに長し

サクレレモンは、やはり美味しかった

冬は風呂に限る。

いや、夏もお湯に浸かることがあるほどには風呂好きで、肩まで浸かっては「に゛ほ゛ん゛じ゛ん゛~~」と唸るほどには日本人な私であった。前言撤回、年中風呂に限る(ちなみに「じ」に「゛」は熟練の日本人しか発音できない)。

がさごそと箱から適当に選んで浴槽に放り込んだ入浴剤は、爽やかな柚子の香りを浴室中に撒き散らした。そのせいか、私の頭の中は「風呂上がったらサクレレモン買いに行こう」という思考でいっぱいになってしまった。

 

左手に残る抜け毛の数に戦慄しながらも髪の毛を乾かし切り、いやいや季節の変わり目だから、猫っ毛だから、そもそもうち禿げずに白髪になる家系だから、この前行った美容院のイケメソ副店長も「全然髪薄くないっすよォサラサラっすォマジで」って言ってたから、と自分を騙くらかしつつ、湯冷めしないような服に着替えた。

お目当てのサクレレモン(スライスレモンが入ったかき氷。おいしい)は、近くのコンビニと、スーパーなんだか薬局なんだか分からないデカ便利店舗のどっちかに売っていたはずだ。どちらも24時間営業である。徒歩圏内に年中無休の食料品調達手段があるんだもんな、さすがに田舎とは言えないな、と客観的に実家の立地を評価する。

 

玄関を開けると、雨を思わせる独特の匂い、いわゆるペトリコールが漂っていた。実際に足元のアスファルトは斑に濡れている。雨が降ったのか。気付かなかった。そういえば高校時代、東京在住の友達と一緒に雨上がりの道を歩いているときにペトリコールの話題になったが、「雨の匂いなど知らん。鼻の利く田舎者め」と理不尽に罵られた記憶がある。しかし私はアレルギー性鼻炎を患っているので、圧倒的に鼻は利かない。その事実が、より一層「ペトリコールを意識するのは田舎者だけだ」という彼女の意見を鮮やかに映し出した。先ほどの"徒歩圏内に24時間営業の店があれば田舎じゃない"説が俄かに怪しくなってきた。私はただの鼻が利かない田舎者だったのか。つらい。

 

禍々しいほどの鱗雲と、その隙間から僅かに届く月明かりに見守られながら、コンビニに向かって夜道をすたすた歩く。

ふと、なぜ自分が旅行嫌いなのか、その理由のひとつが思い浮かんだ。恐らく、自分の好きなタイミングで一人になったり話し相手を作ったりすることができないからだ。

私は誰か(この「誰か」とはすなわち、語彙レヴェルが同等で、互いのモノの考え方と趣味嗜好をある程度理解している間柄を指す)と話しながら散歩に興じるのも好きだし、一人(この「一人」とはすなわち、ヒトのみならず、メップルやランやバニラやルナやリボーンなど話し相手となり得る人外も伴わない、イルリキウム単独のことを指す)で知らない街を歩くのも同じく好きである。

そして自分勝手なことに、一人でいたいフェイズと、誰かと一緒にいたいフェイズが、かなり頻繁に入れ替わり襲ってくる。

近場であれば、誰かが欲しくなれば誘ってみたり電話したりすることも可能だし、逆に一人になりたくても、早々に解散してまた後日改めて足を伸ばすことが出来る。だが旅行となるとそうはいかない。「ねえさ、いま暇? ちょっと一緒に散歩しない?」「え、どこいるの?」「四条烏丸」。これでは音速で友達を減らす。ちなみに私は千葉在住である。

話し相手になってくれるようなコピーロボットが欲しいなあ、もし今度ドラえもんの道具で何が欲しい、って訊かれたら、コピーロボットって答えるか、いやコピーロボットドラえもんじゃないや、同じ作者の別作品だ。遠くで呼んでる声がする。

 

コンビニに入ってすぐ、棚の商品がいつもより少ないことに気が付いた。張り紙によると、どうやら新しい冷凍庫が入るらしく、そのために店内を整理している最中のようだ。最も煽りを食っているのは当然冷凍食品とアイスで、品揃えは普段の半分ほどだった。氷点下でしか生きられないなんて実に儚い。

かくしてサクレは、まるで福澤朗の一声によってアメリカ行きへの夢を閉ざされたクイズファンのように、情け容赦なく店頭からリストラされてしまっていた。おそらく一時的なリストラだろうが、なんともまあ儚い。

 

コンビニを手ぶらで後にし、薬局スーパーデカ便利店舗に歩を進める。

ところで私はスーパーが好きだ。薬局併設のではなく、純然たるスーパーが好きだ。小さな頃から母親に付き従って夕飯の買い出しなどに繰り出していたときの記憶も良い方向に作用しているだろうが、大人になってから思うのは、スーパーは幸せの香りを纏わせているから好きなのではないか、ということだ。

三千世界の鴉を殺したそうな顔をして、安くなった弁当を手に取っているサラリーマンは見かけるが、少なくとも、悲壮感溢れる顔でカートを引いている大人はほとんどいない。基本的に、みんなうきうきしているのがスーパーだ。「今日の夕飯は何にするー?」「んー、メルジメッキ・チョルバス!」という親子の会話が聞こえてくるようである。

つまりスーパーは、家計を同一にする人間が、この後ともに食事することを前提に集う場所なのである(例外は多いが)。様々な家庭の交錯するハッピーオーラをその身いっぱいに浴びながら選ぶ合挽き肉の、なんと美味しそうに見えることか。

だからデートするならスーパーが良い。同一家計ごっこができるから。

実は大学時代の同期とたまに一緒にスーパーへ行くが、いやもう、隣でカートを押す彼女のことを見ていると、正直言って新婚の気分だ。「バルサミコ酢欲しいんだよね~」なんて、私の小説に出てくる新婚キャラに絶対喋らせたい台詞をリアルで口にしてくれる。こんなこと彼女に言ったらカートの力を借りて爆速で引かれてしまうに違いないのでおくびにも出せないが。なお我が嫁氏は料理にさほど興味がなさそうなので、多分バルサミコ酢なんて欲しがらない。何せ私が念入りに一個売りトマトの選別をしていると、「どれも胃に入っちまえば一緒だよ」と宣うほどの豪胆である。【横文字+漢字】の調味料なんてそもそも知らない可能性すらあ、ごめん殴らないで

 

そんなことを考えながら、体は勝手に任務を遂行しようとしていた。スーパー薬局の冷凍庫にはしっかりとサクレレモンが鎮座しており、その目立つ黄色いパッケージは、スーパー薬局というややくすんだ空間に存在する正当性を主張しているように思えた。

 

レジでは、私が大学時代に塾で教えていた子が応対してくれた。顔と声では一切分からなかったが、この時代にフルネームを名札にバビョーンと記してくれているため、気付くことができた。とは言え、こちらもマスクをしているし、何ならこの前眼鏡を変えたばかりで雰囲気も変わっているだろう。やはり向こうが気付く素振りは無い。

当時は高校生だったのに。そうか、今は深夜バイトも出来る歳になったんだなあ。

そんな感慨に耽る私の胸に、彼女の眠そうな「ありがとうございました」がじんわりと広がっていった。