イルリキウムです。
この記事は、我が音楽オタク仲間であるなまおじ氏(なまおじ (@namaozi) | Twitter)の記した以下の小論考へ対する、ある種の"correspondence"である。
註)特に自然科学分野のジャーナルでは、論文に対して "letter to the editor" や "correspondence" といったコメントが投稿されることがある。ものすごく簡単に言うと「お手紙」だ。
内容は、不明点についての著者への質問であったり、反対意見であったり、関連する知見の発表であったり様々であるが、いずれもスピーディな読者の反応という点で一致している。こうしたインターアクションが新たな議論を呼び、より一層、その分野を発展させていくということに異論は無いだろう。
「音楽を公平に語る必要などない」。
私は、この意見には全面的に賛同している。
より正確に言うと、「音楽語りにおいて"公平さ"が及ぼす影響は微々たるものである」と思っている。
「公平」という言葉を、"好みのバイアス抜きに"、あるいは、”自分の経験や専門分野に癒着せずに”、という意味合いと捉えると、「公平な音楽語り」とは、「好きな音楽も嫌いな音楽も、自分がやったことある楽器も無い楽器も、おしなべて同様の目線から聴き取って分析したもの」になる。
……無理じゃね?
いやもう、これは誰がどう考えても無理なのだ。そもそも、ライナーノーツだって、その音楽分野の専門家が書くし、指揮者のコンテストは指揮者が審査する。経験こそが、語るための手札の数を規定する。
ただ。それを認めてしまうと、とある懸念が頭を擡げることになる。
「では、音楽経験の浅い人は音楽語りに手を出せないのか?」
もちろん答えは否……、と言いたいところなのだが、私は現時点では、「手札が少ないのは事実」と考えている。
楽器の奏法を知っていれば語れるネタが増える。
音楽ジャンルの歴史を知っていれば楽曲の時代的位置付けが分かる。
歌詞の背景を知っていれば掘り下げられるポイントが増える。
偏に、経験と知識は武器だ。
しかしながら。ここを勘違いしてほしくないのだが。
「手札が少ない」=「音楽語りの魅力や求心力が小さい」では断じてない。
「言葉で語るのが苦手な人は、好きな音楽を発信することを躊躇っているのではないか?」
私自身が文章を書くことを苦としていないためか、時折こうした疑念が浮かぶ。これは常々、私の心に浮かんでは消え、消えては浮かぶ懐疑であり、恐らく今後も拭い去れないものであろう。
だけど、言葉を尽くすことが苦手だと思っているあなたにこそ聞いてほしい。
あなたがとある曲を好きだと思ったその感情は絶対的に真実であり、誰が「ほんとに好きなの~? どんなところが~??」と突っついたところで、揺らぐことはあり得ない。好きという感情の存在は、言葉により規定されるものではない。
だからこそ、私は誰もが、「理由はよくわかんないけど、好きなものは好きなんだ」と叫んで然るべきだと思っている。
むしろその、「貴賤なく誰もが好き勝手に言っている状態」こそが、音楽語りの公平性とさえ思う。
私が「好き」を言葉にする理由
一方で、私はよく、
「『好き』に責任を持ちたいから、言葉にしているのだ」
という旨の言葉を口にする。
前述のとおり、言葉の不在が、「好き」の存在を忽せにすることには繋がらない。
しかし、言葉の存在が、「好き」を屹立させ、更に彩ってやることは、あると思っている。
「好き」を"屹立させる"というのは、感情を自分から"切り離し"、その上で"他者から見つけやすくする"というイメージだ。これは、
非常に私的な音楽語りが、音楽の聴き手にはもちろん、時には作り手にも共感を呼び、果ては誰かと心のつながりを感じられることさえある
というなまおじ氏の指摘とリンクする。
例えば。
「カレーが好き」という人間の中には、「舌を刺激するスパイシーさが好き」な人や、「ルウとご飯が一体となったときの甘みが好き」な人、あるいは「本当に好きなのは付け合わせのラッキョウと福神漬」というような人が混在している。
さて、カレー好きという情報のみで意気投合した3人がいたとしよう。歩いているうちに辿り着いたキーマカレー屋に入ることになったが、ここでとんでもないことが判明する。
Aさん「俺、根菜のゴロゴロ入った甘いやつが好きなんだよね」
Bさん「自分はスパイシーなやつが」
Cさん「私はインディカ米を使ったグリーンカレーが」
どうしたことか、ここにキーマカレー好きはいないのである。
まあ、3人ともそれなりのカレー好きであるから、別にキーマカレーでも美味しくいただいてしまうだろう。だが、自分の好みドンピシャのカレーを、同じ好みを持つ誰かと食べられたら、どんなに幸せだろう……。
Cさん「私はインディカ米を使ったグリーンカレーが好きで……」
Dさん「俺も! あの絡まないサラサラ感がいいよな!」
Eさん「そうそう! タケノコが入ってるやつが食感あって好き!」
こんな3人ならば、迷いなくエスニック料理店に入って、会話に華を咲かせることだろう。
私が、自分の「好き」を細かく語るのには、こうした"選別"の意図が少なからず含まれている(誤解を生む表現かもしれないが、敢えてこの言葉を使う)。
幸いなことに、私がTwitterというツールを手に入れて飛び込んだのは、MONACAやCymbalsなど、自分が好きだと思った音楽を好きでいる人々のコミュニティであった。
広い分野で「好き」が一致している仲間の只中で、もっともっと突き詰めて、自分が好きだと思った細かなポイントを語ったときに、それに食いついてきてくれる人がもしいた場合、その相手は本当に自分と同じ聴体験をしているに違いない。そう考えて、私は常々、言葉を尽くして音楽を語ろうと試みている。
演奏も言葉も、心のうちを語っている
実は、私が演奏動画を上げる理由も同様のものだ。
表現型が「言葉」か、「音」か、それだけの違いである。
「いやいや。言葉と演奏じゃ違うでしょ。だって言葉では『ここが好き』とか言えるけど、演奏じゃ『好き』とか言えないじゃん」とお思いだろうか?
そんなことはない。私は思いっきり「好き」を込めている。
もしそれが伝わっていないとしたら、それは私の伝える力が不足しているためだろうから、大変申し訳なく思う。
(あるいはもう一つの可能性は、私が好きな場所とあなたが好きな場所がかなり異なっているかだ)
好きな曲を言葉にして「好き」という心を語り、
好きな曲を演奏して「好き」という心を語っている。
演奏動画には、もう一つの意味を込めている。
さすがに、楽器の演奏にはそれなりの経験年数を必要とする。言葉による表現よりもハードルは高いだろう。誰もが出来る表現方法ではないかもしれない。
私も、親が音楽経験者でなければ、運良くクラシックピアノを習っていることもなかっただろうし、運よく吹奏楽団体に入っていることもなかっただろうから、私がいま好きな曲を演奏できているのは、運が良かったからに他ならない。
もう一つの意味というのは、そんな「誰でも出来るわけではない製作をしている者側」として、誰かからの「好き」を受け止めたいという欲を満たすためだ。
こんな欲、数年前までは全く無かった。
何せ、私がDTMに手を出した10年近く前から今に至るまでに制作した曲のほとんどは、私の大親友と血縁の5, 6人にしか聴かせたことがないし、彼らとて、私と似通った音楽経験をしているわけではないので、私の性癖を理解してくれるわけではない。自分の曲は自分で聴いて悦に入っているだけであった。
それがどうだ。今は、何かしら曲の感想を書くと反応がある、同じ感想を持つ人を観測できる、違う意見にもすぐにアクセスできる。同一の趣味を持つ人が書いた曲に感想を書ける、それに対するレスポンスもある。
これが楽しくなくて、何であろうか。
いつしか、私もこの双方向の「好き」を享受したくなったのだ。
享受してみて分かったことは、共通の「好き」を持つ作り手と受け手は、ただただお互いを向いた矢印を間に置いているのではなくて、同じ音世界の中に存在しているということだ。
長いこと音楽をやってきたつもりになっていたが、こんな実感は最近になって初めて抱いたものである。
今までは誰かの音楽に対して、自分を含めた複数人が「好き」の矢印を飛ばしているだけだった。
今や、矢印などというものはなく、「好き」が空間を形成しているのだ。
そして、その「好き」の輪郭を、対象の音楽そのものの輪郭に限りなく近づけていきたいと願いながら、私たちは今日も一緒に音楽をするのだ。
誰かと一緒に音楽をするための一歩は、「好き」を叫ぶこと。
何も難しいことじゃない。