高校生のとき、少人数制で行われる【国語表現】という授業があった。
テーマに沿った800字程度の論考あるいは随筆を書き、みんなで全員の作品を読み合い感想を寄せるというものだ。
非常勤で本校にいらっしゃっていた講師の先生は、長年新聞記者として活躍し、当時も連載コラムを持っていたバリバリの文筆家であった。基本構成を逸脱し、キュビスムの様相を呈していた私のザ・破格エッセイに対して、独自性を尊重しつつも読みやすくなるように赤を加えてくださったことには感銘を受けたものだ。
「好きな言葉」とか「響いた言葉」とか、そんなものではなく。
石碑のように心に刻まれ、苔むしてなお立ち続ける、そんな言葉がある。
表題の言葉は、私にとってそのうちのひとつ。
国語表現の授業で発表された、当時のクラスメイトによる作文であった。
テーマが何だったかは覚えていないし、同じ回に自分が何を書いたのかも覚えていない。きっと平々凡々たる駄文でも連ねたのだろう。
そして正直、誰がこの「信号待ち」の作文を書いたのか、それすら記憶が曖昧である。この言葉だけが私の中で強く存在感を放っているのだ。
曰く、
世の中には、凡百の"待ち時間"がある。多くの人は待ち時間を嫌う、自分もそうだ。待っている時間は、無駄に消費されているように感じるからだ。
しかし、信号待ちだけは、待っていること自体が目的である。無駄に消費されることを旨とする時間であるから、その間、"無駄を埋め合わせるために有意義な時間の使い方を考える"必要性が無い。したがって、何も考えないことが正当化される。
人生、何かを考えていないと、誰かから責められるような気がしてしまうものだ。だが、信号待ちの時間に、何も考えていないことを誰が責められようか。
だから自分は、信号待ちの時間が好きだ。
細部は再現できていないかもしれないが、彼の作文の大意はこのようなものであった。
私は、彼の感性にしばし言葉を失った。
まず、「自分には表現できないことだ」と思った。私は、常に暇潰しのための本を持ち歩くタイプの人間であり、待ち時間に対して嫌悪感を覚えたことが多くなかった。信号待ちの僅かな時間にすら本を取り出すような奴に、信号待ちを特別に捉える感性などあろうはずもなかった。
そして、彼の織りなす文章世界に嫉妬心を覚えた。「信号待ち」という非常に距離の近い日常について、思考を深められることは凄いことである。
同時に、こういった感性を持つ同級生と同じ教室で勉強できるということを幸せに感じたのだった。
その日から、信号を待っているときに、ふと彼の紡いだ言葉を思い出すようになった。
鞄から本を取り出すことをせず、ぼんやりと信号の庇の部分を眺める。
「……あの庇の部分、名前付いてんのかなぁ」
あー、考えちゃったわ。
苦笑していると、目の前の信号が青を示す。私は「何も考えないこと」が苦手なのだな、とつくづく思った。そして、そんな違う感性から生まれた言葉だからこそ、こんなにも心に残っているのだな、とも。
今日も信号は私を待たせる。
「何考えてんの?」
今度、信号機からこう問いかけられたら、半笑いで返してやろう。
「いや、何も」