論理の感情武装

PDFに短し、画像ツイートに長し

私は『箱根八里』の歌詞を漢字で書けるのだろうか?

イルリキウムです。

 

私は、旅行があまり好きではない性質で、専ら千葉に留まって生活をしている。

東京に遊びに出るのは好きなのだが、それなりに色々な街を歩いた結果、一番気に入ったのは丸の内だったので、結局最も使うのは東京駅ということになる。

言ってみれば近場だ。

 

そんな私だが、箱根の彫刻の森美術館には4回訪れた。

箱根 彫刻の森美術館 THE HAKONE OPEN-AIR MUSEUM

少ししとしとした箱根の森の中の空気が、自分の輪郭を溶かしていくようで、不思議と性に合ったのだろう。

登山電車の雰囲気も好きだ。
あれは中学生のときの旅行だったか、ICレコーダに「幻想サマーデイズ」(COOL&CREATE)を入れ、ジャミジャミの音質で聴きながら揺られたのを思い出す。

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幻想サマーデイズ (Tr.1) は郷愁を誘う名デュエット曲

COOL&CREATE - 東方サマーフタリ

 

まあ、千葉からなのでさほど遠くはない。私の"旅行"の限界はこのくらいである。

 

登山電車やケーブルカーの一部駅では、駅メロとして『箱根八里』(作詞・鳥居忱、作曲・滝廉太郎)が使用されていた。

最初にこの曲に触れたのは小学校6年生のとき。教育芸術社の教科書に掲載されていた。

 

「はっこねっのやっまはーてんかーのけん……」

未だに歌えるし、何の脈絡も無くメロディが頭に浮かんでくることがある。
シャッフルビートの節回し(いわゆるピョンコ節)で、最初から【ドドミミソソソー】と動いていくので明るくノリが良い。

「てんかのけん……けん……?」

 

はて、「けん」とは何だっただろうか。

小6の当時は、言葉の注釈こそ載っていたが、本気で読解しようという意識は無かった。修学旅行で箱根に行くというので、みんな覚えただけのことである。

小学校で習った唱歌には文語調のものも少なからずあったが、そのうちの多くは和語が基調で、雰囲気で文意を掴み取れたものである。

箱根八里は思いっきり漢語祭りだ。漢文訓読調である。硬い。同じく6年で習う『朧月夜』と比べてみてほしい。

 

武士、なんて歌詞があるなら、天下の「剣」……違うな、山が天下の剣って変だし。西洋っぽいし。
天下に轟く険しさを誇る山、ってことだったら「険」だったかな? そんなような気が。
いや、なんかもうちょっと山っぽい感じだった気もする……。山偏の漢字があった、ような無いような……。

私の頭の中で、囁き声が聞こえた。

おい、『箱根八里』の歌詞、漢字で書けるんだろうな?」 

 


 

とてつもなく残念なことに、今の私には自信が無い。

次に箱根に行ったときに胸を張れるよう、ここでひとつしっかりと、箱根八里の歌詞を漢字も含めておさらいしておきたい。

ただ、これは解説記事ではなく、私が思いついたことをダラダラ書いていく備忘録である。したがって、私だけが思い出しやすい造りになっている。

学生時代、私の地理や生物のノートはこぼれ話でいっぱいだった。どうでもいい関連事項ほど頭に残るものだ。それと繋げておけば、本当に覚えたい内容もぼんやりと手繰り寄せられる。私はこれで高校受験勉強中の漢検準1級を乗り切った。

 

というわけで、今後の人生で絶対忘れないように『箱根八里』を繙いていこうと思う。

 


 

【歌詞の全体像を確認しておく】

初出は『中学唱歌』(1901) 。もちろん旧字体が用いられている。

 第一章 昔の箱根

箱根の山は 天下の險 函谷關も物ならず
萬丈の山 千仭の谷 前に聳え後にさヽふ
      雲は山をめぐり
      霧は谷をとざす
晝猶闇き杉の並木 羊腸の小徑は苔滑か
     一夫關に當るや萬夫も開くなし
天下に旅する剛毅の武士
大刀腰に足駄がけ 八里の岩ね踏み鳴す
斯くこそありしか往時の武士

 

 第二章 今の箱根

箱根の山は 天下の阻蜀の棧道數ならず
萬丈の山 千仭の谷 前に聳え後にさヽふ
      雲は山をめぐり
      霧は谷をとざす
晝猶闇き杉の並木 羊腸の小徑は苔滑か
     一夫關に當るや萬夫も開くなし
山野に狩する剛毅の壯士
獵銃肩に草鞋がけ 八里の岩ね踏み破る
斯くこそありけれ近時の壯士

(ちなみに音楽的な掘り下げは本記事のテーマから外れるので割愛するが、Wikipediaの記事に試聴用として貼り付けられている合唱は、もともとの楽譜と比べるとめちゃくちゃシンコペが異なっている。私が習ったものとも違う。ただ、連綿と写譜されていくうちに付点が落ちたりなんだりして出来てしまった楽譜を、合唱団は素直に読んで歌っているだけなような気がするので、一概に間違っている、と叩くわけにはいかない。私としては、Wikipediaの試聴用はあんまり参考にしてほしくない)

 

【まずはじめに】

章構成だったのかよ!

前半(1番)がかつての箱根、後半(2番)が作詞当時の箱根、という話は習ったが、「第一章」だったとは。

しかし半分以上は詞が一緒である。第一文も、内容は「めっちゃ険しい山やで」って同じことを言っているので、実質最後の3文による対比ってことになる。

 

【細かく歌詞を見ていく】

<天下の險>

<天下の阻>

やっぱり「險」だった。険の旧字体で、訓みは「けわ・しい」。

この右側にある口と人の2セットのちょっと気持ち悪いやつ「僉」は、「セン/みな」(ケンじゃないんかい)と読んで、基本的には「倹」「険」「剣」「験」などの旧字体に使われているのを見る。

しかし「鹼」「瞼」「臉」などには新字体が定められていない。これが親字だ。

驚くべきは「鹼」であろう。「鹸」という字はあるのに、「鹼」が旧字体なのではない。「鹸」は異体字だ。ひっかけじゃんこんなの。

 

……さて、どうやら調べてみると、「天下の嶮」という表記も存在するらしいことが分かった。『音楽2 中等学校男子用』 (1944) においてである。

この山偏の「嶮」も意味は一緒で、「険」に書き換えて用いられる。こっちの方がぱっと見で意味が掴みやすくて私は好きだ。会意形成最高。サイコゥサイコゥ。

 

2番の「阻」も、「岨」という同義の字にされている場合がある。合わせて「険阻(嶮岨)」という熟語もある。

 

<函谷關も物ならず>

カンコクカンは、初め、「韓国間」で「日本~韓国間の距離なんか目じゃないほど長いんだぜ」的な意味かと思った。そんなわけないだろ。そもそも最初に「険」って言ってるのに何で長さの話になるんだよ。

「函谷関」は長安~洛陽間にあった、それはもう大事な関所らしい。詳しくは周りの中国史オタクに訊いてみてください。

 

「函」の字は、数学ファンにとっては「函数」でおなじみの字だが、一般的には「投函」や「函館」の方が通りがよいだろう。

これ、うけばこの中にある1, 2画目の形、横線書いたら下→右→下と、かくかくしているのが正解なのだが、「了」と書いてしまう字体を見ることがある。

不思議なことに、JIS第2水準には「凾」という異体字が存在し、こちらは「了」の形になっている。「極」からの類推と思われるが、だとしたら「了」になるのは妙な話だ(離筆が少なくなるから、筆記の経済性としては納得できる)。

笹原の調査によると、同じく北海道の銭函小樽市)では、「了」形の「函」をよく見かけたという。手書きのみならず、印刷の看板にもあった。よく使う地域では、それほど簡易化される傾向にあるのではないか、ということだった。

それにしても銭函ってすごい地名。

 

<萬丈の山>

一丈は3.03m。一尺の10倍にあたる。

万丈を字面通り捉えると30,300mということになり、チョモランマ3.4座分にあたる。そんな高いわけないだろ、ってことで、これは非常に高いものの比喩である。

 

万と萬の関係は旧字体でよいのだが、数字に関しては「一」「壱」の関係も旧字と誤解している方が少なくない。

これは「大字」といって、改竄を防ぐ目的で、単純な漢数字の代わりに用いられる複雑な字形の漢字である。なんなら「壱」は新しい字体であり、旧字は「壹」だ。

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「壱」「万」円札

 

それを知ったとき、私は思った。「旧字の萬が万になったってことなんだろうけど、どこがどうなったらそう略されるんだ。てかそもそも萬って何? 象形文字

大修館書店のHPを見ると答えが載っていた。「萬」はもともとサソリに似た動物で、それを表す象形文字だったらしい。一方で、数字の10,000の発音は「萬」と似ていたのだと。つまり仮借(かしゃ)である。

「万」は別ルートで生まれた漢字らしい。こちらも10,000の発音と似ていたため、仮借で使われるようになった。

……つまり、10,000を表す文字が二つあったので、簡単な方を新字体として採用したってことなんだな。「万」が「萬」から生まれたわけじゃないんだな。納得。

 

<千仭の谷>

「仭」には異体字「仞」も存在するので、出版物によって表記揺れがある。

「仭」はこれまた長さの単位であり、漢検漢字辞典に拠ると「両手を上下に広げた長さが『仞』で、左右に広げた長さは『尋』」とのこと(Wikipediaを見ると、『説文解字』の「仭」の項目にそうした記載があるようだ)。

そういえば、「仭」の訓読みは「ひろ」であり、「尋」と音訓を共有している。

これに従うなら、谷は縦の長さ(深さ)なので、幅を表す尋よりも仭を使うのが合っているということだ。

一仭は七尺とも八尺とも。ただこれは当時中国の「尺」(23cm程度)なので、一仭は160cmくらいである。

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千尋」も同じく「とても長い/深い」という意を持つ

 

仭を使った成句に、「九仭の功を一簣に虧く」「九仭一簣」というものがある。「簣(キ)」は土を運ぶ竹籠のことで、「虧(か)く」は「欠く」に通じる。高ーーーい山を作っていても、最後のひと盛りを怠ったら山は完成しない。つまり、最後の努力を怠ると、全部台無しだよ、という意味だ。

ここでは「九仭」が「とても高いこと」を表している。千仭も九仭も高いんかい。111倍違うぞ(そういうことではない)。

 

<前に聳え後にさヽふ>

万丈の山が眼前に屹立し行く手を阻み、千仭の谷がバックに控えていて引き返す道も阻んでいる、という対句&対句的な構造になっていて綺麗である。

「聳」という字は、「そび・える」という訓の他にも「おそ・れる」という訓みがある。「聳懼」などと使い、ビビり散らかすという意味だ。そびえ立つものは得体の知れないもの、あるいは触れてはならないもののような感じがして恐いから、なのかな?

 

「後」を「しり」と読むのは表外訓である。

更に「しりえ」と読ませるときは、通常「後方」と書く。「辺・方(へ)」は古文でよく見る。

 

たまに、<シリエニサソ"ウ">と歌っているものを聞く。そんな風に歌うから、「後方に"誘う"」だと勘違いを生む。「ささふ」は「支ふ」で、歴史的仮名遣いの原則に従えば、読みは「サソー」となろう。

「支ふ」は「障ふ」で、邪魔をするという意で解するのが良さそうだ。現代語でも、「支える(つか・える)」という訓みがある。

 

<雲は山をめぐり 霧は谷をとざす>

インデントされてて見た感じカッコよくなってる部分。もちろんここも対句だ。

「めぐ・る」も「とざ・す」も、漢字の選択肢は複数あるのだが、あえてひらがなにしているのはなぜだろう。

 

「鎖す(とざ・す)」で思い出されるのは……?

 

そう! もちろんウルキオラ・シファーの帰刃「黒翼大魔(ムルシエラゴ)」の解号ですよね! みなさん! え、知らない!?

ムルシエラゴはスペイン語のmurciélago(コウモリ)に由来するが、この語はもともとmurciégaloで、音位転換metathesisによって出来ている。

murciégaloの成り立ちは、mur ("mouse")+caeculus (caecusの指小形←koikos "blind") で、「目の見えないネズミ(のような動物)」という意味合いになりそうである。昼飛んでるコウモリは目見えてるけどね。

 

ランボルギーニの車種にも「ムルシエラゴ」がある。車には明るくない私でも知っているので、有名な車種に違いない。先代の「カウンタック」も有名……に違いない。

後継車種の「アヴェンタドール Aventador」は寡聞にして存じ上げなかった。辞書を引くと、やはりスペイン語でaventar(吹き飛ばす)という動詞を見つけた。Aventadorはかつて闘牛で活躍した牛の名だというので、この語に由来するのではないか、と考えている。

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うわあ色々と吹き飛ばしそう

 

<晝猶闇き杉の並木>

「晝」は「昼」の旧字体である。

「聿(イツ)」が筆を手に持っている象形文字で、これを日と組み合わせた会意文字だというのだが、どうやら古典にはこの字に「ひるま」としての用法は無く、謎の残る漢字らしい。

詳しくは【参考文献・サイト】に記載したブログ記事からどうぞ。

 

<羊腸の小徑は苔滑か>

「羊腸」でgoogle検索すると、ソーセージばかりがヒットするのだが、もちろん羊の腸のように長くてくねくねしているさまの比喩だ。羊腸小径、という四字熟語でも使われる。

ただ、どうして羊なのかはよく分からない。

思い当たる節としては、古代中国では羊肉が好まれていたから、というところだろうか。「美」にもその姿が見られる。「羹」なんて羊が2頭も出てくる。じゃあ「羊羹」は3頭もじゃん!

(ちなみに「羊羹」はもともと羊肉を煮たスープの意。うまそう)

 

同じような意味の言葉で「九十九折(つづらおり)」がある。語源は諸説あるが、ツヅラフジの関係している説が面白い。

なんでも、ツヅラフジによって織られた葛籠(つづら)の織り目が、「九十九」に似ていることから、九十九に「つづら」の読みを当てた、という説だ。そうすると、葛籠"織"りにも引っかけているように聞こえてくる。

 

「右/左つづら折りあり」の道路標識がある。

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これは先に右に曲がるので「右つづら折りあり」

山道を通ることがあるのでたまに見かけるが、面白い形をしているな、と見る度に思う。きっと、目に入りやすいとか、折れ曲がっているのが分かりやすいとか、デザイン的に考えられたくねくね具合なんだろうと思うと、無性に笑えてくる(失礼)。

 

「小径」の字を見ると、東方projectの楽曲『春色小径 ~ Colorful Path』が想起される。この曲のせいだろう、pathという英単語は「小道」ではなく「小径」と訳したくなってしまう私である。

「径」は、ぎょうにん偏に、「たていと」を表す「巠」がくっついた文字。ズバリ「こみち」という訓もある。字義からは、人が一人歩ける幅がやっとある程度の細い道をイメージさせる。

「道」は、テレビ番組や本でもよく紹介されるように、新たなみちを拓くときにその地の霊魂を鎮めるため、刎ねた首を持って歩くさまから出来ている文字。しんにょうは四つ辻の象形であることを踏まえると、径よりももう少し広いみちを想像させる。

「小路」を「こうじ」ではなく「こみち」と読ませることもある。「路」は、「足」+「各(小石につっかかる)」から成っているようで、各方面から来た足が止まっては進む、という意味合いがありそうだ。したがって、やはり「径」よりは大きいように思える。

この辺りの漢字の使い分けは、使い手や受け手のもつ感性に拠るところが大きいだろう。正解は無い。このように、同訓異字が多くあり、イメージを委ねられるところは、私が漢字に感じる魅力のひとつといえる。

 

<一夫關に當るや萬夫も開くなし>

このフレーズは出典がはっきりしている。李白の「蜀道難」である。

蜀の桟道がそりゃもう険しい道のりだ、という詩の中に現れる一節は、「一人が関所を守っているだけで、大人数にかかっても破られることはない」と、その厳しさを伝える。

「一人が守ってれば、万夫進めない」に近い表現は、李白以前にも散見されたらしい(後藤, 2005)。

……そんな山中の関所守りたくないな……。

 

<八里の岩ね踏み鳴す>

八里?

急に八里?

そう。そもそも「箱根八里」の「八里」が何なのか私は分かっていなかった。ここまで、「山が険しい!」「高い!」「霧深い!」「くねくね道!」と歌われてはいたが、決して「距離が長くてしんどい……」とは言っていない。だって八里って長そうじゃないもん。九十九里の方が長いじゃん。

これは、東海道における小田原宿~箱根宿~三島宿の里程を表したもので、前者が4里8丁、後者が3里28丁だというので合わせてちょうど8里となる(1里=36丁)。31.4km……、普通にしんどいわ。しかも高低差あるし。

 

ちなみに、九十九里は頼朝の時代につけられた名で、1里=6町でカウントされている。したがって、1里=36町の時代と比べると、6分の1の長さに相当する。つまり、九十九里浜は、今でいうと十六里半浜である。

九十九里はとても長いことの比喩だよ~」という意見がネットには散見されるが、誤りである。

 

千葉県民としてはもう少し突っ込んでおきたい。

九十九里浜は、旭市刑部岬からいすみ市太東岬までを指している。この刑部(ぎょうぶ)は、律令制において司法を取り仕切る役職の名であり、和名ではおさかべと読ませる。

遡ると、刑部という部民の名があった。その刑部氏(おさかべし)に由来する地名は全国に散在し、ちゃんと千葉県内にも存在するのである! 長柄町刑部(おさかべ)。刑部岬と合わせて、読めたらあなたも千葉県地名オタクの仲間入りです。

 

「岩ね」の部分も、版によって「岩根」になったり「碞根」になったりしている。このはなかなかお目にかからない。JIS第4水準だ。

「嵒(ガン/いわお/けわ・しい)」は同じ意味で「大きないし」を表す。これがやまいだれに入ったのが「癌」である。この字のセンスはすごい。悪性腫瘍(固形がん)は触ると実際にぼこぼことして不整であり、かつごつごつと硬い。確かに、前立腺がんの触診所見として「石様硬」という言葉もあるなど、石に例えることがある。そしてその見た目の禍々しさ。意味はともかくとして、字としてよくできている。

 

<斯くこそありしか往時の武士>

<斯くこそありけれ近時の壯士>

高校古文講座ではないが、ここの「き」と「けり」の使い分けは少し面白い(お気づきのように、いずれも「こそ」に係るため已然形で結んでいる)。

 

思い返すと、高校時代に習った基本的な意味は、

き:体験した過去(目睹回想)

けり:①伝聞の過去(伝承回想) ②詠嘆・気づき

といったものだった(「気づき」という捉え方は、草野清民が1901年に提唱したものであるようだ。詳細は参考にしたブログへ)。

しかし、古典や短歌を読むにつけ、どうにもこの《目睹回想》と《伝承回想》の意味分けは合わないのではないか、という疑念が湧くようになった。体験していないのに「き」を用いているものに、頻繁に出会ったのである。

韻律や響きを重視する詩歌の場合、それが顕著だ。已然形であればともに2モーラのところ、それ以外では拍に差が生まれるため、互換性が無い。意味を取るか拍を取るか、となってしまう。

調べてみると、どうやら研究者の間では、「話し手にとって確実な過去」に「き」を用いるという共通見解があるようだ。さらに、多くの用例を検討したところ、「作者や作中人物が、終わったことを確信をもって述べるとき、「キ」を使うことができる」といえそうだ、と加藤 (2019) は指摘している。

(まあ、そもそもの話、言葉は移り変わるもの。既成の文法で意味を縛ってしまうと、解釈の幅が狭まったり、矛盾を生じたりすることがあるわけだ)

 

さて。歌に話を戻す。

『箱根八里』の第二章の「けり」は、現在のことをうたっている以上、過去の意味で取るのは不自然である。詠嘆の意味で取っていいだろう。

そこに《気付き》はあるのかどうか。「今の男たちも、昔と同じように、こんなに力強く箱根の山道を往くんだぞ」と宣言しているのだとすれば、「あっ、今気づいたんだけどね」という意味合いは含まないと考えた方が妥当であると思う。

 

「かくこそありけれ」を含む歌を2首紹介したい。

世の中は かくこそありけれ 吹く風の 目に見ぬ人も 恋しかりけり

                     紀貫之古今和歌集

や~~切ないね。やりきれない。この「けれ」は《気づき》の意味を含んでいると解釈していいと思う。

有名な歌なだけに、解釈も様々にあるが、

・学究肌の貫之が、恋心に初めて気づき、自然の摂理と結びついたように感じた

・「目に見ぬ人」は、吹き去った風のように、一度は逢えたけれどもう二度と逢瀬を果たすことができなくなった人

という、2つの解釈がなんとなく好きだ。

 

もう一つ。

みがかずば 玉も鏡も 何かせむ まなびの道も かくこそありけれ

                        昭憲皇太后

これは最近の歌で、明治天皇の皇后である昭憲皇太后が詠まれたもの。

東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)に下賜された歌だが、これはもう、性別関係なくその通りだと身の引き締まる言葉である。

八尺瓊勾玉八咫鏡を思わせるが、あれは神器だから磨かなくても光るのかな……。

「まなびの道も かくこそあるなれ」と断定してしまうのも悪くはないのだろうが、少し高圧的な雰囲気も受ける。あるいは皇太后は、自らも研鑽の途中であるという意識で、「自分もようやく実感しているけれど、学ぶ道もそういうものだなぁ」と道を示しているのかもしれない。

 

……と思いつつ調べを進めていると、なんと『箱根八里』は第2版で

<斯くこそあるなれ 當時の健兒>

に歌詞を変えていることに気づいた。「健兒」の読みは、今までと変わらず「ますらを」である。また、この歌詞が、芦ノ湖畔の県立恩賜公園に建つ石碑に刻まれている歌詞であるようだ。

どうして「なり」にしたのだろう。逆に、力強く断定した方が、曲調に合うと判断したのだろうか。

 

「当時」という語は、まさにその時、ということで、「現在」を意味する用法と、「〇〇当時」の形で「〇〇の時(つまり過去の一時)」を示す用法とがあるが、実際のところ、単独で「当時」と使っても過去を示していることがほとんどではないだろうか。

もちろん、『箱根八里』で歌われる「當時」は、現在の箱根、である以上、前者の意味である。

しかし、これはかなりややこしい気がする。経緯について少し調べてみたが、あまり有効な情報は手に入らなかった。単純に、後者の意味で使われる頻度が増えていった結果だろうか。

 

ことばは、土地や時代により移ろい変わっていく。”正誤”に拘泥しすぎないようにしたいものだ。

 


 

以上、思いついたこと調べ殴り書き殴り記事であった。

もし本記事で触れた事項の中で、詳しいことをご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひご教授ください。

 

 

【参考文献・サイト】

公益社団法人日本漢字能力検定協会編「漢検漢字辞典(第2版)」(2014)

笹原宏之「方言漢字」角川ソフィア文庫 (2020)

まぼろしチャンネル「第6回 『箱根八里』」2020/10/20閲覧
http://www.maboroshi-ch.com/old/edu/ext_15.htm

後藤秋正「唱歌『箱根八里』の歌詞と漢詩文」札幌国語研究, 10, pp.73-81 (2005)
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/2725/1/KJ00004297610.pdf

なっとく童謡・唱歌 2020/10/20閲覧
https://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00taki.htm

風船あられの漢字ブログ「漢字の覚え方 僉」 2020/10/20閲覧
http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-6191.html

同「漢字の覚え方 各」 2020/10/21閲覧
http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-266b.html

大修館書店「漢字文化資料館」万・萬について 2020/10/21閲覧
https://kanjibunka.com/kanji-faq/mean/q0417/

「蜻蛉・莞爾の無責任漢字樂院」晝・昼について 2020/10/21閲覧
https://blog.goo.ne.jp/kanji-circle/e/90378e791b3e9031c9a13fabf0586bce

「表文研」詩の文法―「き」と「けり」の使い分けについて―(執筆者:加藤孝男) 2020/10/21閲覧
http://hyobunken.xyz/?p=1225