大学時代の話。
お昼どきに時間が空いたので、友人と共にキャンパスを出てご飯を食べることにした。
友「そういえばこの前、妙な声が流れてるネパール料理屋の前通った」
私「ネパール?」
友「呪詛のようだった」
私「呪詛?」
気になったので行ってみることにする。
店の近くまで来ると、店頭でモボモボ鳴っている何かが聞こえる。何を言っているのかまでは聞き取れないのだが、確かに人の声だ。
そして、使用人と思しき女性が、手当たり次第といった様相で通行人に自店の紹介カードを配っている。
興味を持つ人はほぼいないように見受けられたが、彼女はめげずに、めっちゃ追いかけてカードを渡そうとしていた。
そのがっつき具合に違和感を覚えた我々は、"経験に勝るものなし"の精神を以て、一度店の前を通過してみることにした。すかさず女性がカードを差し出してくる。
女「よろしくおねがいします」
私「どうも」
友「どうも」
カードを受け取るやいなや、店の中から何かが飛び出してきた。
主「スイマセン、オネガシマス! オネガシマス!」
友「!?」
それはなんと店主だった。恐らく。
友「え、あ、はい、まあその、すんません、えっ、怖っ」
あまりの剣幕に私と友人は逃げようとしたが、10mくらい小走りで追いかけてきた。
* * * * * * * * *
初夏の気候のなか、恐怖体験をした我々は正常な判断力を失った。
せっかく店主を撒いたのに、とぼとぼと店の前に戻ってしまう。
看板を見る。
『ティピカルネパール料理』という名らしい。
典型的なネパール料理。
……典型的。
もしかしてネパールでは違う意味なのだろうか。「人を追いかける」みたいな。
「オイシィオイシィヤスィ ティピカルネパールリョウリィティピカルネパールリョウリィ ニジュヨジカンヤッテルゥニジュヨジカンヤッテルゥ スミマセンオネガシマス」
ラジカセから延々と流れているこれは、さっき聞いた店主の声だった。
変なところにアクセントがついているせいで、脳を蝕む節回しに仕上がっている。
つーか24時間やってんのか。
「オイシィオイシィヤスィ スミマセンオネガシマス」
そんなに美味しくて安いというなら食べてやろう。
店に入った我々を先程の店主が出迎えてくれることはなかった。
なんか中央のテーブルで携帯弄ってた。やる気ゼロかよ。
主「コッチドウゾ」
店の端のテーブル席に通された。
店主は厨房に戻る。店内は暗い。開け放たれている入り口。
そして我々は気付く。
私「あれ……メニュー無いね」
友「あのー、メニューくださいー」
戻ってきた店主は、なぜかサラダを2皿持っていた。
主「ドゾ」
友・私「……?」
主「イマノジカン、コレ。オカワリオケィ。ゼンブジブンデ」
友・私「……??」
店主の指先を見ると、B5のコピー用紙にこう書かれている。
【ランチタイム 食べ放題 ¥1,000
カレー3種
タンドリーチキン
ナン
サフランライス
ラッシー】
友・私「……???」
我々は目を合わせ、蟻地獄のような店に迷い込んでしまったことをアイコンタクトだけで慰め合った。
* * * * * * * * *
店主の横暴はとどまるところを知らない。
主「コッチニカレーアル。ゼンブジブンデ」(真顔)
私「はぁ……、つまり今やってるのはこれだけってことすか」
主「コッチニ。ゼンブネパールリョウリ。オイシイ」(真顔)
友「あ、このプレートに乗せるんですか」
主「ソレハチキン」(ややキレ)
私「はあ、どうも……」
まるで「近い内にこの荷物処分しますんで」とでもいうように壁に寄せ置かれていた容器を覗いてみる。
挽肉らしきものが浮いたカレー紛いのスープ。
ひよこ豆のような物体が見え隠れするカレー紛いのスープ。
なんの草か分からない緑のやつが顔を覗かせているカレー紛いのスープ。
トリプルしゃばしゃばカレー。
そして隣に、木炭かあるいは流木かといった見た目のタンドリーチキン(多分)。
店主は、立ち尽くしている我々を見て「あまりに美味しそうでどれから食べるか迷っちゃ~う(はぁと」と思っているとでも感じたのか、少しニヤついて、我々の持っていた容器に勝手に盛り付けを済ませ、席へ置いてしまった。ラッシーも勝手に注いでいる。普通の店なら当たり前のことだが、我々に対して頻りにセルフサーヴィスだとアピールしたのをもう忘れたのか。怒涛のネパール料理。みすず学苑。
「ティピカルネパールリョウリィ スイマセンオネガシマス オイシィオイシィヤスィ ニジュヨジカンヤッテルゥ」
私「wwwwwwwwww」
友「どうしたwwwwwwww」
スイッチが切れた。
もはや感情は失われた。
我々はティピカルなネパールの奔流に呑まれたのだ。
ネパールを口へと運ぶ。
私「wwwwwwwwww」
友「wwwwwwwwwwwwwww」
ご飯は、誰に習った水加減で炊いたのかお粥になりきれない程度のべちゃっと感で、謎の「おばあちゃん家のような味」を感じる。
カレー紛いのスープはすべて同じ味。
流木は味蕾を潰したくなる塩辛さ。
そして頼みの綱であるラッシーは、サ○ガリアでもまだもう少し濃いめに造るだろうという代物。
こうして、我々のランチタイムは圧壊したのだった。
* * * * * * * * * *
「オイシィオイシィヤスィ ニジュヨジカンヤッテルゥ ネパールアァー ティピカルネパールリョウリィティピカルネパールリョウリィ」
ところで、私と友人は、頻繁に昼食を共にする仲である。
そして、普段から互いにお喋りであるため、周囲に比べて食べるのが遅い。
だがしかし。今日は違う。その口数の少なさ!
二人とも、常軌を逸したティピカルネパール料理に、ニューロンの繋ぎ替えを余儀なくされているのだ。
二人とも、この有無を言わせぬ圧から、一刻も早く脱出させてくれと八百万の神に手を合わせているのだ。
もがく我々に、店主がナンもどきを運んできた。
揚げ餃子の皮のようだった。不味くない。奇跡だ。ありがとう店主。
主「オカワリオケ。ジブンデトル」
友・私「……はい」
主「オキャクサンニホンジン?」
友・私「……はい」
主「コノリョウリゼンブアブラツカッテナイ。ヘルシー」
友・私「へえぇ」
主「『ギー』。ギュウニュウヲギーニスル。ネパールデヨクツカウ」
友・私「そうなんですね~!」
ひとつ利口になってしまった。不覚の極みだ。
「ティピカルネパールリョウリィ スイマセンオネガシマス オイシィヘルシィヤスィ ニジュヨジカンヤッテルゥニジュヨジカンヤッテルゥ」
もはや食事をしているのか悟りを開こうとしているのか分からなくなってきた。
もう少し頑張れば開けたかもしれない。悟りは開いておいた方が就職に有利、ってブッダも言ってた。
我々の15分ほど後に入店したおばさまがいた。
「メニューどこ? あら、そう……」の言葉以降、表情が曇りっ放しで、今は書類と睨めっこしている。
日傘を差しながら息急き切って店に飛び込んできたおばさまの姿も、我々からしたら異常だったのだが、そんな異常さはこの空間では些末な問題だった。
こうして、我々の努力は報われた。
完食である。
食べ放題? 知らん。
* * * * * * * * * *
英世。すまん。こんなことに使うつもりじゃなかった。
友「2,160円ですって言われたらどうする」
私「キレる」
もう用は無い。会計を済ませて店を出よう。
ふと店主を見ると、彼は店内ド真ん中のテーブルでiPhoneを見ながら食事をしていた。ラッシーをジョッキで飲んでいる。接客ナメんな。
「ごちそうさまでした!!!!!」と呼びかけるも、同じタイミングで通行人が来たためか、そちらに迫っていく店主。さらに後ろから来た自転車を追いかけていった。
……我々は既に囚われの身なのだ。彼にとっては、会計より新たな客をひっ捕らえることが優先なのだ。
こうして尊い2,000円は、ティピカルなネパールの民に渡ってしまったのである。
しかも店主は、まだ奥の手を残していた。
主「コレ、シゴトトカ、ガッコーノトモダチニワタシテ。ヨロシクオネガシマス」
例の店舗名刺である。7枚くらい渡してきた。
今すぐ紙吹雪にして北島三郎に吹き付けてやりたい衝動を抑え、颯爽と店を出て、そして逃げた。遠くまで。
「ティピカルネパールリョウリィ オイシィオイシィヤスィ」と信号待ちのサラリーマンに呟く程度には、私は精神を汚染されてしまった。
一ヶ月後、その店は潰れていた。