イルリキウムです。
私はよく、好きな曲に対して「カーステから流れてくると事故る」というセンテンスを使う。
感情が揺らぎ、意識が曲に持っていかれ、運転に集中できなくなる……。とまあ、そんな意味合いである。
無論、本当に事故ったことはないし、運転に支障は出ないことがほとんどだ。
テンションが上がって私にバシバシ叩かれるハンドルにおいては迷惑極まりないだろうが。
テンションが上がって私にバシバシ叩かれるハンドルにおいては迷惑極まりないだろうが。
しかしながら、とある曲に関しては、涙で視界がぼやけて危ない、と思ったことが何度もある。
つい先日も、この曲がランダム再生に乗ってうっかり流れてきた。
うっすら窓を開けて高速道路を走っていたのだが、そんなことも忘れて、私はあらん限りの声で「ウェイクアップガーーーールズ!!!」と叫んだ。
「WUGで一番好きな楽曲は?」と訊かれても、『タチアガレ!』ではない。
「生で一番聴きたい楽曲は?」と訊かれても、『タチアガレ!』ではない。
……私というワグナーにとって、この曲は何なのだろう。
少しだけ振り返ってみようと思う。
そういえば今日は2月23日。ちょうど1年前は、ファイナルツアーもゴール間近の仙台公演day1だった。
率直な第一印象は、「真っ直ぐすぎて取っ掛かりに欠ける」。
どのシチュエーションに出してもそれなりに違和感の無い"シンプルさ"や"普遍性"のあるメロディワーク。
素直な進行、丁寧に挟まるsus4、サビのオーケストラヒット、特殊なシンコペーションを挟まずテンポを保つリズム隊。
神前さんらしいといえる、純粋な楽曲と聴き取れた。
素直な進行、丁寧に挟まるsus4、サビのオーケストラヒット、特殊なシンコペーションを挟まずテンポを保つリズム隊。
神前さんらしいといえる、純粋な楽曲と聴き取れた。
デビュー当時の初々しい7人の歌声が、その「純粋さ」に拍車をかけたかもしれない。
私は、「アニメのOPに期待するか~」と物足りなさを感じながら、映画館を後にしたのを覚えている。
その物足りなさが吹き飛ばされつつあると意識したのは、翌年の夏。2ndツアーでのことである。
2016年、2017年、2018年……。時は過ぎていき、WUGというコンテンツも様々な波を超えていく。
不遇に苛まれる時期も決して少なくなかった。逆風に帆を畳みかけ続けた。
もがいて足掻いて、少しでも明るい未来へ手を伸ばそうとする。
もがいて足掻いて、少しでも明るい未来へ手を伸ばそうとする。
ハイパーリンク。歌詞がより一層、意味を持った。
決死の覚悟は、人の胸を打つ。
ライブに行く度、有志のイベントで耳にする度、『タチアガレ!』が私の心を揺らすようになっていった。
イントロのギターが鳴らす分散和音が、彼女たちの登場を予期させる。
ストリングスの音量が最高潮に達し、〈Wake Up, Girls!〉と7人を呼ぶコールが弾ける……。
ストリングスの音量が最高潮に達し、〈Wake Up, Girls!〉と7人を呼ぶコールが弾ける……。
彼女たちを呼ぶワグナーの声は、日を増すごとに大きくなった。
それに呼応する7人の歌声に宿る魂は、ステージを経るごとに熱さを増した。
いま私が『タチアガレ!』を聴くとき、思い出される景色は実に様々である。
物足りなさを覚えていたあのときの自分。
周囲の友人たちにWUGのウケが悪く、話せる相手の少ないまま足を運んだイベント。
歌もダンスもどんどん上手くなっていくWUGちゃんたち。
周囲の友人たちにWUGのウケが悪く、話せる相手の少ないまま足を運んだイベント。
歌もダンスもどんどん上手くなっていくWUGちゃんたち。
そして、ラスサビが流れるころには必ず。
そっか。簡単なことだった。
『タチアガレ!』には、6年間のWUGの物語がぎっしり詰まっているのだ。
WUGを支え、ワグナーを導いた。
SSAのフィナーレを飾り、みんなの「第2章」への餞別ともなった。
それが『タチアガレ!』なんだ。
楽曲までもが脱皮し進化していく、その過程の中にいられた幸せを噛み締める。
『タチアガレ!』は、私が大好きな"WUGの物語"の外枠であり、かつ本流なのだ。
私にとって『タチアガレ!』は、もはや単なる楽曲ではなく、想い出のアルバムなのである。